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神谷傳兵衛の足跡

神谷傳兵衛(かみやでんべえ)の一生をアルバムに納めました。
神谷傳兵衛と牛久シャトーの歴史を、当時の貴重な写真とともにご覧ください。

序章神谷傳兵衛の誕生

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1856(安政3)年、神谷兵助の六男として三河国幡豆郡松木島村(現:愛知県西尾市一色町)に生まれた“神谷傳兵衛(かみやでんべえ)”(幼名:松太郎)。豪農の家に生まれながらも家が没落したため、幼くして働きに出ました。
転々と奉公する中で、酒を商いすることに興味を持ったのは、わずか8歳の時だったと言います。傳兵衛の姉の嫁ぎ先である尾張国知多地方(現:愛知県知多郡阿久比町)は古来から銘酒の産地として知られており、酒造家はみな裕福で豊かな生活をしていました。これを見た傳兵衛は、小さな胸に酒造家としての夢を膨らませました。

第一章洋酒との出会い

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1.ワインとの出会い

「みかはや銘酒店」

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「みかはや銘酒店」

「蜂印香竄葡萄酒」
(はちじるしこうざんぶどうしゅ)

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「蜂印香竄葡萄酒」
(はちじるしこうざんぶどうしゅ)

1893(明治26)年近藤利兵衛(34才)と。
卓上、左側は、「電氣ブランデー」、
右側には、「蜂印香竄葡萄酒」

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1893(明治26)年近藤利兵衛(34才)と。
卓上、左側は、「電氣ブランデー」、
右側には、「蜂印香竄葡萄酒」

その傳兵衛が特に洋酒に興味を持ったのは、横浜の外国人居留地でフランス人が経営するフレッレ商会という洋酒醸造所で働いていた1873(明治6)年17歳の時。
持ち前の誠実な性格で経営者に可愛がられていた傳兵衛は、ある日原因不明の激しい腹痛に襲われ、衰弱の一途をたどりました。これを知ったフレッレ商会の経営者は傳兵衛を見舞い、持参した葡萄酒を飲ませました。それを飲んだ傳兵衛はたちまち気分が爽やかになり、病苦が和らいでいきました。その後も毎日少しずつ飲用すると、次第に元気が出て、やがて病気はすっかり治ってしまったのです。 傳兵衛はこの時、葡萄酒が持つ滋養効果を知ったのでした。

傳兵衛は「極めて高価な葡萄酒は一般的に日本人には飲用されていない。日本人の誰もが飲めるような葡萄酒の国内醸造ができないものか。それを将来の本業にするのもよいではないか」と考えました。ここに、傳兵衛の運命は大きく変わったのでした。

2.蜂印香竄葡萄酒の成功

傳兵衛は天性の商才があり、24歳で一人立ちし、1880(明治13)年浅草に「みかはや銘酒店」というにごり酒の一杯売りを開業しました。さらに、国内での洋酒の需要が高くなってきたのに目をつけ、輸入葡萄酒を再製した日本人の口に合う甘い葡萄酒を製造しました。
これが大成功をおさめ、1886(明治19)年「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」として世に知られることとなったのです。

傳兵衛はこの成功に満足せず、やがては葡萄栽培からワイン醸造までを一貫して行える一大事業を起こしたいと考えていました。

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「蜂印香竄葡萄酒」と当時の広告

傳兵衛は、ワインを一般に普及させようと考えていました。
その頃、本格ワインは日本人の食生活になじみがなく、傳兵衛は樽詰めの輸入ワインにハチミツや漢方薬を加えて、甘味(かんみ)葡萄酒に改良しました。
これが1886(明治19)年発売の「蜂印香竄葡萄酒」(はちじるしこうざんぶどうしゅ)です。

「蜂印」という名称は、かつて傳兵衛が「Beehive(蜂の巣箱)」というフランス産ブランデーを扱ったことに因みます。「香竄(こうざん)」とは父兵助の俳句の雅号であり、親のご恩を忘れないためにと、この言葉のなかに「隠しても隠し切れない、豊かなかぐわしい香り(まるで樽のなかの卓越したワインのように)」という意味があることに因みます。

この「蜂印香竄葡萄酒」は、親友で最大の事業協力者でもある近藤利兵衛の優れたマーケティング活動により、1900(明治33)年頃には全国で人気商品となりました。

第二章国産ワインへの挑戦

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「デュボワ商会」ボルドー・カルボンブラン村
醸造場(明治28年3月 神谷傳蔵 撮影)。
9〜10月の収穫に向けて、土の掘り起こしや枝の剪定を行っている。

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「デュボワ商会」ボルドー・カルボンブラン村
醸造場(明治28年3月 神谷傳蔵 撮影)。
9〜10月の収穫に向けて、土の掘り起こしや枝の剪定を行っている。

建設中のシャトー本館

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建設中のシャトー本館

明治29年秋、フランス・ボルドーでの神谷傳蔵。
デュボア商会カルボンブラン村醸造場の2年あまりの実習の後、修了証を授けられた。

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明治29年秋、フランス・ボルドーでの神谷傳蔵。
デュボア商会カルボンブラン村醸造場の2年あまりの実習の後、修了証を授けられた。

「みかはや銘酒店」を開業して12年。ようやく葡萄園を開設する見通しが立った際にまず必要となったのが、葡萄栽培とワイン醸造法に習熟した技術者でした。葡萄栽培の事業は、明治初期から北海道や新潟などで開始されていましたが、いずれもアメリカ種でした。当時、傳兵衛の目指すフランス種の栽培は不可能に近いと考えられていました。しかし傳兵衛は、「フランス種の葡萄が育たないのは研究不足だからだ。しかるべき人材をフランスに派遣し、その技術を習得すれば必ず成功する」と信じていたのでした。

子宝に恵まれなかった傳兵衛は、兄圭介の長女・誠子を養女とし、働き者で研究熱心と評判の高かった小林傳蔵を婿養子として迎えました。傳蔵は誠子との婚儀を終えたわずか3日後、傳兵衛の夢を叶えるべくフランスへと旅立ちました。
傳蔵が派遣されたのは、フランス最大のワイン産地であるボルドー地区にあるデュボワ商会のカルボンブラン村醸造場でした。傳蔵はここで葡萄栽培の方法を究め、機械の操作や応用、また醸造の仕方なども習得。そして3年後、傳蔵は自らの身体と頭に詰め込んだ技術と知識とともに多数の参考書、醸造用具、土壌サンプルなどを持ち帰りました。

傳蔵の帰国後、早速最適な土地を探し始めた傳兵衛は、茨城県稲敷郡岡田村の原野、女化原(現:茨城県牛久市)の23町歩を開墾し、苗木6,000本を移植。「神谷葡萄園」と名づけられたこの葡萄園が見事成功し、本格的な牛久進出を決意したのです。1898(明治31)年、傳兵衛42歳の時のことでした。

第三章牛久シャトーの誕生と隆盛

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そして、1901(明治34)年3月、傳兵衛は本格的なワイン醸造場「牛久醸造場(現:牛久シャトー)」の建築に着手しました。建設にあたっては、ボルドー地区の最新様式を採り入れ、それに傳蔵の実地経験により改良が加えられました。こうして1903(明治36)年9月、総工費3万円余をかけ、傳兵衛の夢であった本格的なワイン醸造場が完成。本館正面には“CHATEAU D.KAMIYA”の文字が刻まれました。「牛久醸造場」のワインは最新の外国製機械の導入と傳蔵の技術指導により、国内外から高く評価され、数々の名誉ある賞を受賞しました。

シャトーの完成から20年の歳月が流れた1922(大正11)年。数々の偉大な事業を成し遂げた神谷傳兵衛は、66年間の華々しい生涯を閉じました。

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救済活動と什宝献納

注)これらの画像は、牛久シャトー100周年を記念し、2002年10月20日から11月24日に開催した特別展「カミヤの至宝」展覧会図録より抜粋したものです。作品はすべて東京国立博物館に所蔵されています。無断転載・コピーはご遠慮ください。

傳兵衛は、事業のかたわら、生涯を通して数多くの文化事業や慈善事業に精力的に取り組みました。大きな災害が起こるたびにただちに救済活動を行い、羅災窮民のために金穀や衣類、農具を支給したといいます。また教育や神社仏閣、社会公益事業への関心も高く、多くの寄付をしました。その金額は記録に残っているだけでも総額で16万円にものぼります。

傳兵衛の数多くの寄付行為のなかでも、1919(大正8)年に自家にあった美術骨董品668点すべてを東京帝室博物館(現:東京国立博物館)へ献納したことは最も世間を驚かせました。傳兵衛はこれらの什宝を多くの人々に触れてもらうことが、社会に役立つ最良の行為だと考えたのです。

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傳兵衛と諸名士との交流

1904(明治37)年
<平田東助>
前列中央が農商務大臣平田東助。

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1904(明治37)年
<平田東助>
前列中央が農商務大臣平田東助。

1905(明治38)年
<松方正義>
前列、右から2人目が松方正義侯爵。
左隣は松方正義夫人。後列、中央が傳兵衛。

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1905(明治38)年
<松方正義>
前列、右から2人目が松方正義侯爵。
左隣は松方正義夫人。後列、中央が傳兵衛。

1905(明治38)年
<児玉源太郎>
<清浦奎吾>
前列、マント姿(右から4人目)が日露戦争
終結直後の児玉源太郎。縦列に囲むようにして、傳兵衛(右)、近藤利兵衛(左)。前列右から3人目は清浦奎吾。その右隣は茨城県知事、寺原長輝。

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1905(明治38)年
<児玉源太郎>
<清浦奎吾>
前列、マント姿(右から4人目)が日露戦争
終結直後の児玉源太郎。縦列に囲むようにして、傳兵衛(右)、近藤利兵衛(左)。前列右から3人目は清浦奎吾。その右隣は茨城県知事、寺原長輝。

1906(明治39)年11月19日
<大山巌>
前列右から2人目が傳兵衛。
前列中央が大山巌元帥。左端より近藤利兵衛、傳蔵。

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1906(明治39)年11月19日
<大山巌>
前列右から2人目が傳兵衛。
前列中央が大山巌元帥。左端より近藤利兵衛、傳蔵。

1913(大正2)年5月
<伊藤佑亨>
向島の別荘にて。この日、翌年10月の板垣
退助とのワインパーティーを約束した。

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1913(大正2)年5月
<伊藤佑亨>
向島の別荘にて。この日、翌年10月の板垣
退助とのワインパーティーを約束した。

1913(大正2)年10月13日
<板垣退助>
本館2階での祝宴(ワインパーティー)の様子。

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1913(大正2)年10月13日
<板垣退助>
本館2階での祝宴(ワインパーティー)の様子。

1915(大正4)年10月13日
<土方久元>
牛久葡萄園を視察する土方久元伯爵。

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1913(大正2)年10月13日
<板垣退助>
本館2階での祝宴(ワインパーティー)の様子。

1915(大正4)年10月13日
<土方久元>
前列座したうち、左より2人目が伯爵

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1915(大正4)年10月13日
<土方久元>
前列座したうち、左より2人目が伯爵

1900(明治33)年3月、榎本武揚らと
共に。シャトー本館(明治36年9月竣工)
建設以前に出来た「貯蔵庫」の前で。

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1900(明治33)年3月、榎本武揚らと
共に。シャトー本館(明治36年9月竣工)
建設以前に出来た「貯蔵庫」の前で。

傳兵衛は、実業家以外の諸名士とも交流がありました。政治家では勝海舟、山岡鉄舟、榎本武揚、曾禰荒助、板垣退助、土方久元、軍人では大山巌、児玉源太郎、西郷従道らと親交があり、その結果、多くの偉人たちが牛久シャトーを訪れました。